硫黄島の 黒い砂のように暗く濃いトーンの画面が印象的だった。見終わった時、誰しもその内容の重さに、すぐには立ち上がれずにいた。
私は恥ずかしながら、この映画で初めて、「硫黄島の戦い」がどういうものだったのかを知った。
第二次世界大戦からは、駆け足で終わってしまった学校の歴史の勉強では、教えてもらわなかったことを、アメリカの映画監督より教えられた。
ハリウッド映画ながら、ほとんど日本語のこの映画は、クリント・イーストウッド監督の「言語は違っても、良い演技は万国共通である」という考えに、日本の俳優陣が見事に応え、また事実をくまなくリサーチした信憑性の高い脚本によって、日本人が見ても違和感なく、まるで日本映画かと錯覚してしまいそうなくらい出来の良いものであったと思う。
「硫黄島の戦い」を描いているが、いわゆる戦争映画ではない。
ふつうの戦争映画は、どちらか一方が正義で、どちらかが悪という描き方が多く、ヒロイズムにも陥りやすいが、この映画には、イーストウッド監督の、戦争とはそういうものではないという考えが反映されている。
戦闘の映画ではなく、人間ドラマに仕上がっている。
『Justice』という言葉が浮かぶ。
日米双方を、公平な視点で見ていると思った。
イースト・ウッド監督がこの映画を撮るきっかけになったのは、先に公開された「父親たちの星条旗」を監督することになって (ジェイムズ・ブラッドリー、ロン・パワーズ『硫黄島の星条旗』に興味を持ったイーストウッドが、すでに映画化権をもっていたスピルバーグに、其の旨を伝えていたところ、スピルバーグより是非監督にと依頼され)、 第二次世界大戦の太平洋戦線が繰り広げられた時期や場所についての調査に没頭していた時、硫黄島防衛のため、ユニークな防衛戦術を採っていた栗林忠道中将に非常に興味を持ったことからだという。
これまでの日本の戦術は、海岸線に土塁を築き、砲火を浴びせて上陸してくる敵を防ぐというものだったが、栗林中将のものは、約1年も前から島に来て、地下壕を掘り、装備を全て地下に移し、全長30キロにわたるトンネルと、5000もの洞穴にトーチカを網の目のように張り巡らせて、米軍と対峙する、猛烈でしかも明確な防衛戦術だった。
その結果、圧倒的に戦力に勝る米軍が、5日で終わると思っていた攻防戦が、実に36日もの死闘となり、米軍に死傷者2万8千名(うち、戦死者は7千名余り)というかつてない損害を与えることになったのだった。
この戦術を編み出し、見事な指揮をした栗林中将とはどんな男だったかを知りたくて、日本の友人に話を聞いたり、数多くの文献を翻訳させた。
栗林中将はアメリカ留学を経験し、カナダにも滞在している、米国通の、アメリカ人の友人も多い、最後まで、日米開戦に反対した男だった。
「『玉砕指揮官』の絵手紙」からは、軍人の顔とは別に、繊細で家庭的な人物だったことが浮かび上がる。妻や息子、娘に宛てた手紙に心を打たれたイーストウッドは、栗林中将のお孫さんなどの遺族と直接会って話しをする機会を得てからは、是非とも日本側からのストーリーを作り、日米双方から別々に、「硫黄島の戦い」とは何だったのかを描き出そうとしたのだという。
東京から1250キロ南にある硫黄島は、ミッドウェー海戦の大敗北から連敗し続け、数々の諸島を失った太平洋戦争末期において、日本軍にとって最前線の基地として死守すべきものとなった。
飛行場が整っている硫黄島から戦闘機を発進させれば、B29(米軍の超長距離重爆撃機)の往復路を襲うことが可能だったし、中部太平洋に進出する重要な足がかりになる。同時にB29の接近を早期に日本本土に知らせるための前哨としても機能していた。
それが、米軍の手に落ちれば、前哨を失うばかりか、ここを中継点として、飛行距離の短い爆撃機も、B29と共に、日本本土に飛来できるようになってしまう。
2万2千名余りの将兵が硫黄島守備隊として送り込まれた。
硫黄島には、河川や、飲料に適した地下水がなく、将兵たちは水不足と腸チフスなどの伝染病に苦しんでいた。
そんな中、最高指揮官として赴任した栗林中将は、従来の水際作戦を捨て(実際には大本営からの命で、完全には捨てられなかったらしいが)、地下陣地での持久戦を決める。
火山性の島である硫黄島は地熱が高く、硫黄を含んだ蒸気や、亜硫酸ガスなどが噴出する中での地下壕堀りは、筆舌に尽くしがたいほどの辛苦であっただろう。
以前の作戦に固執する参謀や将校の反発、陸軍と海軍との軋轢、大本営の無策などに進展をはばまれながらも、将校と下士官・兵を差別せず、公平に水や食料を分配し、自らも同じ食事をとった栗林中将は、圧倒的多数を占める下士官・兵の人気を集め、士気を高め、全将兵の気持ちを一つにまとめていったという。
「我々の子どもらが日本で一日でも長く安泰に暮らせるなら、我々がこの島を守る一日には意味があるんです。」
この信念の元に、潔く死ぬことが軍人としての名誉だとされていた時代、死ぬことを禁じ、最後の最後まで生き延びて、本土の家族のために、この島を守りぬけと命じたのだった。一人になるまで戦って、一人になるまで生き延びて、無駄に命は捨てるな。
米軍が上陸してからは、食料、弾薬の補給も遮断され、飲まず食わず戦わなければならなかった。死よりも苦しい生だった・・にちがいない。
こんな中で唯一心が休まるのは、家族に宛てて手紙を書いている時、それに没頭している時であったのだろうか。
家族のため、内地で暮らす人々の命を守るために、歯を食いしばって頑張って、散っていった2万1千名の思いが、今「硫黄島からの手紙」として、私達に届けられたのだと思う。
硫黄島で生きて、そして死んでいった方達への慰霊、追悼の映画であると思った。
また、この日本軍の戦いは、敵ながら天晴れと賞賛された反面、その後のアメリカ軍の戦い方にも影響を与えたとされる。
すなわち、自軍の被害を少なくするため、徹底した攻撃が沖縄戦で行われ、そして広島・長崎で原爆投下という「虐殺」がなされたのだ、という見方だ。
硫黄島の将兵たちの、家族を守ろうとする強い信念が、かえって内地にいる家族に仇となってしまったのではないかという見方である。
戦争とはこのようにどうしようもなく悲しく、虚しいものだという思いを強くする。
東京都小笠原村。
昭和43年に返還された硫黄島には、今なお、1万3千余柱もの遺骨が眠っている。
栗林中将もバロン西もその遺骨は未だ発見されていない。
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