宗教など

2014年8月16日 (土)

R.I.P.

夫の父が亡くなって、先日の日曜日に、少し早めの35日法要と納骨が終わった。
壇引きをし、忌中の立て札も取り払われ、これで忌明けとなるらしい。

浄土真宗なので、亡くなったらすぐ、導師によって仏となるため、不祝儀袋も「御霊前」ではなく、「御仏前」で良く、忌明けも49日を待たなくていいのかと思う。

私の実家は真言宗で、少ししきたりが違うし、実家の祖母が亡くなった39年前に比べて色々なことが違うなと感じた数週間だった。

高校2年の時、脳卒中後6年間寝たきりだった祖母が、自宅で亡くなった。
亡くなる直前には呼吸の仕方が違ってきて(いわゆるチェーンストーク呼吸)、家族が枕元に集められて、名前を呼びかけるように言われた。末期の水ということで、母が綿に水を含ませ口をぬぐった。医者が呼ばれ、臨終の宣告がなされた。あまり記憶にないが死亡診断書も書いてもらったのだと思う。

その後、皆が寝てから、実の娘の母と叔母で祖母を湯灌し、含み綿などの処置をして、北枕に安置したらしい。枕元には、魔よけの刃物として槍の先が置かれていたし、一本箸を立てたご飯もあったようだった。

知らせを受けたご近所さんが、何人も手伝いにみえて、役所に死亡診断書を届けることもしてくれたようだった。家中の食器をかき集め、弔問客への接待に使われた。自宅での通夜だったため、家の中は、お客や近所の人たちで上へ下への大騒ぎという感じで、お茶出しを手伝ったことは覚えているが、あとあまり覚えていない。悲しむ余裕などなかった。

義父は、癌の転移が進み、効果的な治療法がなくなった時点で延命治療を希望しなかったため、緩和ケアをしている病院に移り、そこで息を引き取った。

いよいよ今夜が峠かという時に、病院から夫と義兄に泊まって欲しいという依頼がなされた。私と娘も、夫たちが席をはずしている間、見守っていた。叔母や従妹も来てくれたが、義父に声をかけると、認識したようであった。

肺に水がたまって呼吸困難のため、鼻チューブからの酸素吸入とモルヒネとドルミカムの持続皮下注がなされていて、朦朧としていたが、最後まで意識はあったと思う。

最後の晩は、下顎と全身を使って苦しそうに息をしていた。口をあけているので、口腔内が乾燥してつらそうだった。もう水も飲めなくなっていたし。私は見るに見かねて、口腔ケアで使う保湿剤を唇と口腔内に塗ってあげた。表情が和らぎ、頷いてくれた。結局これが末期の水?になったようだ。今は特にそういうことをしないようなので。

最期は夫が看取った。

病院だと看護師が夜も見回りをするが、目を離した間に亡くなっていることもあるため、親族が呼ばれたのだろう。それから、ベッドから移す際に、義父は大きな人だったから、看護師の人出の少なくなる夜間には、男手が必要だったようだ。

明け方の3時半ごろに夫からの電話で呼ばれて娘と病院に駆け付けた時には、義父はストレッチャーで霊安室に向かうところだった。ここで、すでに義妹が手配した葬儀社の車が来るまで安置するとのことだった。

義父はまだ温かく、亡くなったのが信じられないくらいだった。祖母の時には、死が怖くて祖母には触れられなかったのだが・・・。

病院でエンジェルケアを施してもらってから、セレモニーホールの控室へ。控室はメゾネット式になっていて1階は、トイレ・台所付きの遺体を安置する部屋。大きなテーブルもあって、遺族と葬儀社で打ち合わせができるようになっている。お茶出しもできるので親しい人の弔問も受けられる。2階は、トイレ・風呂付で、3組の寝具が用意された遺族が泊まれる部屋になっている。

お参りするためのお壇には、本物そっくりの揺らぎを模した電灯のろうそくが置いてあり、火災防止のため、お線香はなかった。

祖母の時、二十数年前の伯母の時など、お通夜のあとは一晩中、ろうそくとお線香を絶やさぬように、寝ずの番をしなければならなかったものだが、今はしなくてもよいようである。

また、魔よけの刃物も、宗派の違いもあってか、必要ないようである。ご飯も省略。

棺に納めるときには、女性2人の納棺士が来て、本当にきれいにしてくれた。顔色もまるで生きているかのようだった。触ったら、ひんやりと冷たかったが。

遺族は、それでなくても決めなければならないこと、やらなければならないことなどがあって結構大変なので、遺体の死後の処置などプロの方にしてもらえるのは大変助かる。母や叔母は良くやったなと今更ながらに感心してしまった。

セレモニーホールを利用すると、自宅で行った時に比べ、余裕が生まれた。会場でスナップ写真をメモリアルスライドにすることになって、皆で写真を探しながら、思い出話をしたり、写真を探しに義父の部屋に入った時など、几帳面だった義父の人となりを彷彿とさせるものがあったり、色々なことが思い出されて、娘と一緒に悲しみに浸ることもできた。

祖母の時の葬儀は、お寺で行った。2月だったので、お経を聞いている間中、寒かった覚えがある。その点、セレモニーホールは空調が完備しているので、夏でも涼しくとり行うことができる。

火葬場では、昔は煙突から煙が出たものだった。一条の灰色の煙が立ち上っているのを弟と見ながら、ああ、あれは祖母だ。祖母が空に登って行くんだと思った記憶がある。今は、環境に留意して煙を出さないようになっているらしい。

お骨あげでは、材質の違う箸を持ち、隣の人と渡し箸で一つの骨を拾って骨壷に入れたと思うが、お箸も特に材質が違うものでなく、渡し箸をすることもなく一人一人で拾って集めた。
どんどん合理化されていくのだなと感じた。

葬儀では、初七日の法要も一緒に行ったが、祖母の時は別だったような。そして四十九日の法要の後、お墓に納骨した。

お通夜や、お葬式の後、自宅に入る前には、必ずお清めの塩を振ったものだったが、浄土真宗では、霊でないので、お清めの塩は要らない。

こんなことを思いながら、お盆も過ぎた。

義父は最期まで、力を尽くして生きた。今は安らかに、冥福を祈るばかりである。

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2006年10月15日 (日)

上杉謙信

確か来年のNHK大河、「風林火山」で、Gacktが謙信役だったはず。不犯説や女人説までも登場する、孤高のヒーロー、ストイックで戦の天才武将謙信を、中性的でビジュアル系のGacktがどう演じるか、ちょっと興味があるなぁと思いつつ、最近、訪れる場所場所で「上杉謙信」の名を耳にしたり、目にしたりしていたので、記事にしてみました。

まずは、娘の学校の親子活動で訪れた、春日山城址_001
言わずと知れた、謙信の本拠地。
謙信の立像がありました。間近で見たのは初めてでした。

Dsc01841 五智国分寺では、天平年間(729~749)に創設された越後国分寺(建立された場所は今でも詳細不明)が、衰退していたのをみかね、上杉謙信が1562年にお膝元の五智で再興したという話を聞きました。

最初は、当時謙信が信仰していた真言宗のお寺だったのが、江戸時代にはいろいろ事情があって天台宗となったということなども。

娘のマーチングを見に来た実家の両親を案内した浄興寺(歓喜踊躍山浄土真宗興行寺の略称)Dsc01818 の宝物館でも「上杉謙信寄贈の梵鐘」を目にしました。

また、浄土真宗浄興寺派本山のこのお寺(現在、国の重要文化財に指定)は、開祖である親鸞聖人が、越後配流(1207~1214)の後に常陸国で開山したものですが、火災から、信濃国に移って300年近く、今度は川中島の戦い(1553~1564)で戦火にあったため、上杉謙信が越後春日山に避難させたと寺Dsc01845伝にありました。(その後、同国福島を経て、松平氏城下の高田に移り、地震に被災した後、1646年に現在の地に落ち着くことになったのですが。)

ここで、素朴な疑問が湧いたのでした。

『真言宗、もとい、毘沙門信仰をしていた謙信が、何故、宗派の違う浄土真宗を保護したのか?』

『また、幼少時から修行した、長尾氏の菩提寺林泉寺は曹洞宗だったはずだが?』

重箱の隅をつつくような疑問ですが、勝手に推論してみました。

謙信の母、虎御前(青岩院)が真言宗に帰依していたというが、謙信は母の影響を受けているのではないか。

四天王の一人、毘沙門天(多聞天)は戦勝護国の軍神だが、同時に仏法を護る役をつかさどっている。自らを毘沙門天の化身であると言っていた謙信は、宗派を問わず、「仏法」を仏像や経典などを保護することが自分の使命だと思っていたのではないか。

頼まれれば、義のために戦をした謙信だから、困っているものは見捨てられなかったのではないか。

ほぼ同時期に、国分寺を再興しているがその場所は、まさに親鸞聖人ゆかりの地。親鸞が越後に上陸した居多ヶ浜に近く、配所の竹之内草庵跡も本堂の右手にあった。
謙信がこの地近くに親鸞が開いた浄興寺をもってくるのは、偶然ではないのではないか。

と、まあこんなことを考えていたのですが、良くご存知の方から、ご意見をいただければ幸いです。

何はともあれ、裏表なく、敵将にも信頼される謙信は、人間的に好きなタイプです。

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2005年11月29日 (火)

アドベント

Dsc00245 ウォーキングのコースの一つに、カトリック教会の前の歩道を通るコースがあります。

この教会の入り口の2本のヒマラヤ杉、クリスマスの時期になると、色とりどりの600個の電球が飾られ、てっぺんの星のイルミネーションを合わせて、17mを超えるジャンボツリーになります。

S57年より、冬の風物詩になっているのですが、最近はこれを見ながら、ウォーキングをしています。

今年は26日の夜から点灯されました。

皆で、どうしてこの日からなのかという話題が持ち上がりましたが、私は、もうアドベントになったからかな・・と思いました。

Dsc00246 アドベントはラテン語でAdventus(来臨)。神の子イエス・キリストが地上に来られる日(クリスマス=降誕節)を待ち望む期間(待降節)です。

クリスマス(12月25日)の4回前の日曜日から始まります。今年はクリスマスが日曜日なので、その前の日曜日から4回前の11月27日がアドベント第1日曜日だったのです。     (アドベントの期間 : アドベント第1日曜日から12月24日まで、今年は最長28日間。最短は21日間)

イスラエルでは日没から新しい1日が始まるとされているらしいので、26日の夜がちょうど、アドベントの始まりだったのだといえます。

24日のクリスマスイブが何故盛り上がるのかといえば、イスラエルではもう25日のクリスマスが始まっているからなんでしょう(多分)。

アドベントカレンダーといって12月1日から24日までしかないカレンダーは、日にちのところをめくるとかわいい絵が書いてあったり、仕掛けがあったりします。娘の幼稚園に飾ってあって、素敵だなと思った事を思い出しました。こうして、アドベントの期間中、クリスマスを楽しみに待つのですね。

―クリスマスとは、『キリスト』と『マス』『ミサ』(礼拝)という語が一緒になってできた言葉で、直訳すれば、『キリスト礼拝』ということ。『マス』はヘブル語の『ささげもの、贈り物』という意味から来たという節もあり、イエスの誕生を神からの贈り物として受け、礼拝をささげるという意味になります。―

私はカトリックの幼稚園、娘は聖公会の幼稚園だったのですが、クリスマス発表会にはキリストの生誕劇をします。(多少内容は違います・・・。)

私は白いドレスが着たくて、天使の役をしました。大天使ガブリエルという役。

娘も、天使役でした。・・・似たもの親子。

私はこのときの讃美歌が好きです。
「まきびと ひつじを」(The First Nowell 讃美歌103番
「あらののはてに」(Angels We Have Heard on High 讃美歌106番
「神のみ子は」(Adeste Fodeles 讃美歌111番

こんな事を思い出していました。

生誕劇でも12月25日はイエス様がお生まれになった日、とされていて、今まで信じて疑わなかったのですが、どうもそうではないようです。

ヨーロッパでは冬至祭や収穫祭をするところが多かったらしいのですが、キリスト教がローマに伝わる時、ローマでは冬至の祭りを12月25日に祝う習慣があり、冬至は太陽の誕生日とされていたので、世を照らす光の神子イエス・キリストと結びつけて12月25日をキリストの降誕としたらしいのです。

12月25日はキリストの誕生日ではなく、この世に来臨した事を記念する日だったのです。

カトリック教会の前の大きなクリスマスツリーは、来年の1月6日:顕現日(東から来た3人の学者達がキリストを礼拝した日・・・異邦人の博士達がキリストを礼拝した日を記念することによってキリストがイスラエルだけでなく、全人類のために来られたことを記念)まで、点灯されるそうです。

しばらく、夜のウォーキングは綺麗なツリーを見ながらできそうです。

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2005年9月23日 (金)

お彼岸

今日はお彼岸の中日でした。主人の母方の祖父母のお墓にお参りに行ってきました。

秋のお彼岸には、「おはぎ」、春のお彼岸では、「ぼた餅」を食べて、お墓参りをする。

と、だけしか思っていませんでしたが、此方の岸「此岸(しがん)」=現世、煩悩の世界から向こう岸=彼の岸「彼岸」=来世、悟りの世界へ渡る仏道修行週間でもあるそうなのです。
 

「暑さ寒さも彼岸まで」という諺の通り、暑からず寒からず昼と夜の長さが同じである、春分の日と秋分の日の前後一週間を、「お彼岸」といいます。
  彼岸(ひがん)は、古代インドのサンスクリット語「パーラミター[波羅蜜多](はらみった)」の訳語「到彼岸(とうひがん)」を略した言葉です。到彼岸(とうひがん)とは、「此岸(しがん)」すなわち、人間の苦しみ、恨み、悲しみ、喜びなどが混在している迷いの多いこの世界から、「彼岸(ひがん)」すなわち、仏様の世界、迷いのない理想的な世界へと自分を高めて、永遠の「安らぎ」の世界へ到達しようと努力することを意味します。
 したがって、お彼岸の一週間はお墓参りや先祖供養(せんぞくよう)をするだけの行事ではなく、本来であれば日々を心して過ごさなければならないのですが、ともすると怠惰(たいだ)に流れがちな私達の心をひきしめ、自覚と反省を促すために設けられた、私達自身の修養(しゅうよう)のための行事なのです。
 尚、このお彼岸の行事はインドや中国にはなく、日本特有の仏教行事であることから日本人の仏教観(ぶっきょうかん)を最もよく表した行事であると言えましょう。

                     (日蓮宗) http://www.yk.rim.or.jp/~ryogenji/gyouji.html より

この「此岸」から煩悩の海を渡って迷いのない「彼岸」に到達するために、大乗仏教では六つの実践方法、すなわち六波羅蜜の教えを説いています。

  1. 布施波羅蜜(ふせはらみつ)  施そう、物と心!
  2. 持戒波羅蜜(じかいはらみつ)  守ろう、規則や約束!
  3. 忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)  こらえよう、どんなことにも!
  4. 精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)  努力しよう、与えられた仕事に!
  5. 禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)  冥想しよう、心静かに!
  6. 智慧(般若)波羅蜜(ちえ(はんにゃ)はらみつ)「=ものごとを正しく判断すること。前の五波羅蜜(ごはらみつ)を成就(じょうじゅ)することで得られる心の作用」を実践すること   目覚めよう、仏心に!

また先祖や精霊の追善供養はどうして行うのかというと

 一つには、迷いの「此岸から成仏できずにいる精霊を、悟りの「彼岸」へ救い導くため。

 更には、既に成仏して「彼岸」にある精霊の果報を倍増するため。

なのだそうです。         (真言宗) http://www.daishouji.jp/arekore.html#ohiganより

そして、追善供養を行なった人には、やがて功徳となって自分自身に還ってくるといいます。

この年になって、初めて知りました。(今まで深く考えたことがなかったから・・・)

大体の日本人はどこかのお寺の檀家で、ということは、一応「仏教徒」であるはずなんだけれども、日常はまったく意識することがない。お葬式をする時になってあらためて、うちは何宗だったなどと思い至る。お坊さんの唱えるお経の意味も分からず、したがってありがたみも分からず、ただ単に儀式としか思えなくなってしまっている、のが現状です。

宗派の違いにも無頓着です。戒律の厳しい宗教では結婚するのに改宗しなければならないといいますが、日本ではそんなことを考えて結婚する人は稀でしょう。嫁いでからその違いに戸惑うくらいで・・

私の実家は真言宗で、「弘法も筆の誤り」の弘法大師が開いたものですが、その教えの一つに「即身成仏」というものがあるそうです。すなわち、菩薩道を行く修行者となって、日々精進を重ねることで、生きながらの仏にすら成り得るというもので、このような菩薩が地上に満ち溢れた世界を「蜜厳国土」と呼ぶのだそうです。

「自力での修行」が大切だということを説いているものだと思うのですが、私はその対極にある他力本願の浄土真宗の家に嫁いでしまいました。

親鸞聖人の起こした浄土真宗は本願寺派(お西)、大谷派(お東)やその他、真宗と言われる派に分かれているけれど、教義としては「臨終即往生」で、命終と同時に阿弥陀如来がつくった「浄土」に往生させていただき仏になるので、通夜や葬儀のあと家に帰っても清めの塩はいらないのです。「草葉の陰」などと言う言葉はもってのほか、もう仏様なので、「ご冥福を祈る」こともしなくていいのです。

3年前、義叔父のお通夜の時に親族の控え室で、葬儀社の人が説明してくれたことで、初めてその違いが分かりました。「あら、違う・・・」主人も知らなかった・・・・。でも死者の穢れなどを考えなくて良いし、受け入れやすいと思いました。

最近亡くなった、主人の母方の叔母は曹洞宗の檀家で、曹洞宗では、お通夜の晩、みなの唱えるお経を聞きながら、自身もお棺の中で修行して、一晩で仏様になるのだそうです。

んー、なんだか分からなくなってきます。本当の信徒ではないからでしょうか。

追善供養も浄土真宗では仏事としては行わないらしいので、この記事に書いた一般的な「お彼岸」の修養とは関係ないということになるんでしょうね。

今日はAさんの四十九日でもありました。

追記
 コメントから・・・
  ・・・浄土宗を興した法然上人の門下に親鸞さんは入っているので、いわば師弟関係にあるんですね。・・・・念仏を称えることで阿弥陀仏の本願成就して築かれた浄土に、命終後行き着くことができる、浄土宗ではその浄土において、仏になるために菩薩行を積み、やがて仏となるのだそうですが、浄土真宗では、阿弥陀如来をただひたすら信じることで、その力=「他力」によって「本願」=「あらゆる人々に南無阿弥陀仏を臣事させ称えさせて浄土往生せしめよう」がかない、迷い無く救われ、命終後すぐに仏となることができる。』

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